【水鏡の章】第十話 鏡の向こうへ

須田は、あの山に戻ってきていた。

水の道場での体験、竹林で感じた気配の揺らぎ、
そして風の道場で触れた「気」の圧。
それらすべてが、ひとつの答えへと向かっている気がしていた。

風の道場の稽古では、気を感じ、コントロールすることは出来なかった。
自分はまだ、何も掴めていないのか……。
館長はただ一言、「山で立て」と。
意味はわからないが、胸に残った。

心身一如。
身体と心。
これは始まりにすぎない。

人と自然。
この二つをつなぐのも、また気である。

もっと大きな観点でアプローチしろ――
館長はそんなことを言っていた。

そして、山に来て幾日が過ぎただろうか。

山で気配を消して歩くことも同時に続けた。
鹿に触れられたら……すごいんだけどな。

必ずやる事は、山頂にある大きな岩の上に立つこと。
ただ立つだけなのに、時間が長く感じる。
風が吹くたびにバランスを取り、下に見える木々の揺れが気になったり、
鳥の影が気になったり。
それでも続けている。

その夜は満月だった。
雲ひとつない空に、静かな光が山を照らしている。

須田は目を閉じ、呼吸を整えた。
水の道場で学んだ「静けさ」を思い出す。
徐々に意識が内側へ沈んでいく。

風が吹いた。

目を開けた瞬間、視界が広がった。
山の闇が消え、世界が白く澄んだ光に満たされる。
気づくと須田は、境界の里にある池の中央に立っていた。

水面は鏡のように平らで、
自分と月が静かに映っている。

その前に、三寸坊が立っていた。

「……うむ」

ただ一言。
しかしその声は、須田の胸の奥に深く響いた。

(余計なことを考えてしまった……)

次の瞬間――

バシャンッ!

水面が割れ、須田の身体は池へ沈んだ。

気付くと、須田は山頂の岩から落ち、地面に倒れていた。

月は変わらず静かに輝いている。
須田は、少しだけわかった気がした。
説明はできない。

(……水鏡は、心そのものだ)

水の静けさ。
風の圧。
そして三寸坊の存在。

すべてが「水鏡」を理解するための道筋だった。

……結局、何をどうすればいいんだ?

気配、気合、気、全部大事なのは分かる。
分かるんだけど――

「……いや、まだ分からない」

さっきの落下の衝撃が、まだ体の奥に残っていた。

水鏡も、気も、気配も、
ただ触れただけで終わってしまった。

それでも、暗がりの中でふっと何かが揺れた。

水の道場で見た静まり返る水面。
竹林で逃げた小さな影。
てんぐ堂の囲炉裏の火。
平三の十手が放った気の爆発音。
半三の、どこか遠くを見るような目。

そして、初めて三寸坊が夢に現れた時。
鎖分銅が水面に落ちた。

水鏡に波紋。

それらが一本の線になっていく。

——まだ何もできない。
けれど、確かに“何か”が始まっている。

——須田夢物語 水鏡の章 完。