須田が東方街へ向かう途中、
いつのまにか辺りに霧が立ちこめていた。
さっきまで見えていたはずの通りは消え、
人の声も、荷を引く車の音も、
遠くへ溶けていく。
足音だけが、やけに大きく響いた。
須田がくらす日ノ本には、
昔からそう呼ばれている区分がある。
交易を担う西方。
海の向こうから、人と物がやってくる土地だ。
魔法と呼ばれる、不思議な術を使う者がいるとも言われている。
西方の者たちは、
港に隣接した小さな島――
橋を架けて行き来できる「出島」と呼ばれる場所に集まる。
そこで交易が行われ、
彼らは一定の時を過ごすと、また海の向こうへ帰っていく。
一方、東方。
山と水を尊び、
「気」の巡りを暮らしに溶け込ませてきた世界。
遠い昔、
渡来の民がこの島に辿り着き、
小さな町をつくった。
それが、東方街の始まりだと聞いている。
今も東方とは定期的に行き来があり、
人と文化は、ゆっくりと混ざり続けている。
異国の匂いは濃いが、
今ではすっかり、
日ノ本の一部として溶け込んでいる場所だ。
須田が向かっていたのは、その東方街だった。
だが、
霧の中で、道の輪郭が曖昧になっていく。
一歩進むたびに、
世界が少しずつ遠のいていくような感覚。
その霧の奥に、
ふいに門が現れた。
牌楼(ぱいろう)だった。
町に入るための、東方の門。
鳥居にも似た形をした建造物だ。
古びた朱の柱。
時を経た石の台座。
灯りを受けて、
柱の上に刻まれた文字が、
かすかに浮かび上がった。
――桃源郷

須田は足を止めた。
東方街に、
こんな門があっただろうか。
記憶を探っても、思い当たらない。
だが不思議と、恐れはなかった。
胸の奥で、
水面が静まるような感覚が広がる。
(……ここも、境界か)
そう思った瞬間、
霧が、わずかに流れを変えた。
空気が、一気に変わる。
知らないとも、
懐かしいとも言い切れない気配が、
背中をそっと押した。
須田は、
そのまま前へ進んでいった。

