須田は、外にかすかな気配を感じ、そっと戸を開けた。
湿った空気が流れ込み、草の匂いが鼻をかすめる。
少し離れたところに、一頭の鹿が立っていた。
逃げる様子もなく、ただじっとこちらをうかがっている。
須田はふと、さっき見た“爆発の気合”を思い出した。
気配を消すとは真逆だ。
気合や殺気がわかれば、気配を消すことも理解できるのではないか。
――声を出すぐらい、もしかしたら自分にもできるのでは。
ネズミは簡単に逃げ去った。
鹿だって……。
「エイッーーーーー!」
気合を放ったつもりだった。
だが鹿は一歩も動かず、
「キャッ!」と短く鋭い警戒声を返してきた。
「エイッーーーーー!」
「キャッ!」
「マジ……ダメダメだ……」
逆に気合を返されたような感覚が胸に刺さり、須田は肩を落とした。
そのとき――
視界の端で、木の上に“笑う影”が揺れた。
水の道場で見た、あの影だ。
木漏れ日に揺れる肩布の端は、三寸坊の修験姿でもなく、
平三の捕物姿でもない。
もっと端正で、もっと静かで、もっと鋭い。
枝の上に潜む影は、体に沿った黒い装束をまとい、まさに忍びそのもの。
枝の間から須田を見下ろし、目だけがかすかに光っている。
須田は息を詰めた。
体が硬直し、声も出ない。
――ここは夢の世界ではなく、現実。
次の瞬間、影はふわりと枝を蹴り、空へ舞い上がった。
風に乗る黒い影はあっという間に視界から消え、
鹿も驚いて森の奥へと駆け去った。
須田はしばらくその場に立ち尽くした。
