水の道場での一連の体験――
池の静まりと、ネズミの逃げ足。
すぐに身につくものではない。
わかるまで、根気よく修練するしかない。
須田は水の道場をあとにし、山道を歩いていた。
気配を消す。
気配とは何だろう。
考えながら歩くうちに、あたりはすっかり暗くなっていた。
来た道のはずなのに、景色がどこか噛み合わない。
(……道を外れたか)
引き返そうとしても、どちらから来たのかはっきりしない。
風が木々の間を低く抜けていく。
そのとき――
闇の中に、小さな山小屋の影が浮かび上がった。
近づいてみると、古びてはいるが、まだ使えそうだった。
須田は静かに戸を開け、中へ入る。
今夜はここに泊まろう。
土間の奥には囲炉裏があり、
端には乾いた薪が積まれている。
「……少しだけ、借ります」
小さくつぶやき、火打ち石を打つ。
火花が散り、やがて細い煙が立ちのぼる。
しばらくして、囲炉裏の火が静かに燃え始めた。
炎を見つめているうちに、須田の意識はゆっくりほどけていく。
火の匂いが、どこか澄んで感じられた。
気配を消す。
気を知る。
考えは形にならないまま、
火の揺れに溶けていく。
そのまま須田は、囲炉裏のそばでウトウトと眠りに落ちた。
——パチッ。
薪の弾ける音で、須田ははっと目を覚ました。
囲炉裏の火は、まだ燃えている。
だが、空気が違った。
さっきまであったはずの土壁はなく、
柱と梁に囲まれた、見覚えのある空間が広がっている。
須田はゆっくりと顔を上げた。
ここは――
境界の里のあの建物か。
確か、「てんぐ堂」と看板に書いてあったはずだ。
胸の奥が、静かに波打つ。
須田は立ち上がり、そっと窓の外をのぞいた。
池のほとり。
月明かりの下で、小さな影が動いている。
すずめ天狗。
その手には、十手。
十手――
武士や町方が使った捕物具。
相手の刃を受け、絡め、制し、
殺さずに動きを止めるための武器。
だが、目の前のすずめ天狗の十手は、
ただの道具ではなかった。
ひゅっ、と風を切る音とともに、十手が振られる。
流れるような動き。
止まり、また流れる。
受け、流し、絡め、断つ。
十手の本質が、そのまま形になっていた。
無駄がない。
須田は息を詰めて見つめた。
三寸坊ではない。
そして、黒い影でもない。
