水の道場の裏には、竹林がある。
風が細く通る、少し薄暗い場所だ。
須田には、前から気になっていることがあった。
頭目が、ときどき一人で竹林へ行き、
何かをしているのだ。
ある日、稽古の合間にその姿を見かけた。
白い粒。
米をまいている。
(なんで、こんなところに……)
聞こうか迷ったが、やめた。
頭目は説明しないことが多い。
その日の夕方。
須田はひとりで竹林へ向かった。
理由は、自分でもはっきりしない。
ただ、気になったのだ。
竹の影の向こう、
地面がかすかに動いた。
小さな野ネズミが、
落ちた米をかじっている。
須田は足を止めた。
(……気配)
昨日、池で言われたことがよぎる。
――歩くのではない。
――ただ、存在を無くして進め。
須田はゆっくり呼吸を整えた。
気配を消そうとは思わない。
ただ、静かに歩く。
足裏をそっと置く。
地面を押さない。
体を運ぶ。
竹の葉がかすかに揺れる音だけがする。
一歩。
ネズミは気づかない。
二歩。
まだ食べている。
三歩。
距離が、ずいぶん近い。
(……いける)
そう思った瞬間だった。
ネズミの耳がぴくりと動いた。
くるりとこちらを見たかと思うと、
次の瞬間には草の中へ消えていった。
静まり返る竹林。
須田は、そこで立ち止まった。
足音は立てていない。
呼吸も荒れていない。
なのに、逃げられた。
(いける、って思った)
そのとき、
何かが前に出た気がした。
自分の体ではなく、
思いの波長が。
須田は小さく息を吐いた。
考えただけで、伝わるのか。
「……まだまだか」
竹の上で、葉が揺れた。
見上げると、
小さなすずめが一羽、枝の上で跳ねている。
その姿を見た瞬間、
須田の脳裏にすずめ天狗がよぎった。
頭目が竹林に米をまく理由。
もしかして、すずめ天狗を知っているのか……。
チュン、と鳴いて、
すずめはすぐに飛び去った。
須田はしばらくその場に立ち、
それから静かに道場へ戻っていった。
