水の道場に着くと、
いつものように澄んだ空気が須田を包んだ。
ここは山の湧き水が流れ込む静かな場所で、
風の道場とはまったく違う空気を持っている。
風が「動」なら、水は「静」。
ここでは“存在感そのものを薄くする”ことが重んじられており、
そのため道場の近くを通っても気づかない者が多い。
気配を消すことも必要だが、それはあくまで結果であり、
まずは自分の存在を静かに沈めることが求められる。
忍びの道場だけに、人の気配がない。
他の門人に会うことは稀で、
ここでは自分の内面を見つめ、
心を無に近づけることが修行の中心となっている。
道場に入ると、
道場の長が目をつぶって静かに座っていた。
水の道場では「頭目」と呼ばれている人物だ。
まるでそこに“いない”かのように、
気配も存在感も完全に沈めている。
須田は何度見ても、この静けさに驚かされる。
頭目の前に立つと、
自分の気配の揺れがそのまま浮き彫りになるようで、
須田は自然と背筋を伸ばした。
「池で歩いてみろ」
頭目が目を開けずに言った。
須田は一瞬、耳を疑った。
池といっても、道場の前にある浅い水面だ。
底は見えるほど澄んでいるが、
水は冷たく、足を入れれば体温が奪われる。
「……はい」
須田はそっと池に足を入れた。
水面がわずかに揺れ、輪が広がる。
「その揺れを見ろ」
頭目の声は静かだが、
水面よりも深く響くように感じられた。
須田は歩き出す。
一歩ごとに水が揺れ、
自分の存在がそのまま波紋になって広がっていく。
(……こんなに揺れるのか)
風の道場では、
踏み出す、振り出す、軸を通す――
“動き”の中で自分を整えてきた。
だが、水の道場では違う。
動けば動くほど、
心の揺れがそのまま水に映る。
「お前はまだ“歩こう”としている」
頭目の声が落ちてくる。
「歩くのではない。
ただ、存在を無くして進め。」
須田は立ち止まり、
呼吸を静かに整える。
再び一歩。
――水面が、ほとんど揺れなかった。
(……今のは)
須田は驚きに目を見開いた。
自分の体が、
自分の存在が、
一瞬だけ“消えた”ように感じた。
須田はもう一歩踏み出した。
水面は、先ほどよりさらに静かだった。
そのとき――
視界の片隅に、小さな影が入る。
子どもの背丈ほどの小さな天狗。
動きはすずめのように軽く、
存在感は風のように薄い。
どこか、すずめ天狗の三寸坊に似ている。
けれど——
雰囲気が違う。
あの落ち着きのない気配ではない。
もっと静かで、
もっと深いところにいるような影だった。
ここでは、ただ「三寸坊ではない別のすずめ天狗だ」と認識するだけだった。
須田は目を細める。
池の外から、頭目の声がした。
「見えるのか?」
須田が振り向いた、その瞬間。
影は、すっと消えた。
頭目は、それ以上何も言わなかった。
くるりと背を向け、道場の建物の方へ歩き出す。
足音は、ほとんどしない。
須田は、池の中に立ったまま取り残された。
見上げると、竹の上で小さなすずめが跳ねている。
須田はしばらくその場に立ち、
それからゆっくりと池から上がった。
水は、もう揺れなかった。

