第三話 奥の池を歩いてみろ

水の道場に着くと、
いつものように澄んだ空気が須田を包んだ。

ここは山の湧き水が流れ込む静かな場所で、
風の道場とはまったく違う空気を持っている。
風が「動」なら、水は「静」。
ここでは“存在感そのものを薄くする”ことが重んじられており、
そのため道場の近くを通っても気づかない者が多い。
気配を消すことも必要だが、それはあくまで結果であり、
まずは自分の存在を静かに沈めることが求められる。

忍びの道場だけに、人の気配がない。
他の門人に会うことは稀で、
ここでは自分の内面を見つめ、
心を無に近づけることが修行の中心となっている。

道場に入ると、
道場の長が目をつぶって静かに座っていた。
水の道場では「頭目」と呼ばれている人物だ。

まるでそこに“いない”かのように、
気配も存在感も完全に沈めている。
須田は何度見ても、この静けさに驚かされる。

頭目の前に立つと、
自分の気配の揺れがそのまま浮き彫りになるようで、
須田は自然と背筋を伸ばした。

「池で歩いてみろ」

頭目が目を開けずに言った。

須田は一瞬、耳を疑った。
池といっても、道場の前にある浅い水面だ。
底は見えるほど澄んでいるが、
水は冷たく、足を入れれば体温が奪われる。

「……はい」

須田はそっと池に足を入れた。
水面がわずかに揺れ、輪が広がる。

「その揺れを見ろ」

頭目の声は静かだが、
水面よりも深く響くように感じられた。

須田は歩き出す。
一歩ごとに水が揺れ、
自分の存在がそのまま波紋になって広がっていく。

(……こんなに揺れるのか)

風の道場では、
踏み出す、振り出す、軸を通す――
“動き”の中で自分を整えてきた。

だが、水の道場では違う。
動けば動くほど、
心の揺れがそのまま水に映る。

「お前はまだ“歩こう”としている」

頭目の声が落ちてくる。

「歩くのではない。
 ただ、存在を無くして進め。」

須田は立ち止まり、
呼吸を静かに整える。

再び一歩。

――水面が、ほとんど揺れなかった。

(……今のは)

須田は驚きに目を見開いた。
自分の体が、
自分の存在が、
一瞬だけ“消えた”ように感じた。

須田はもう一歩踏み出した。
水面は、先ほどよりさらに静かだった。

そのとき――
視界の片隅に、小さな影が入る。

子どもの背丈ほどの小さな天狗。
動きはすずめのように軽く、
存在感は風のように薄い。

どこか、すずめ天狗の三寸坊に似ている。

けれど——

雰囲気が違う。

あの落ち着きのない気配ではない。
もっと静かで、
もっと深いところにいるような影だった。

ここでは、ただ「三寸坊ではない別のすずめ天狗だ」と認識するだけだった。

須田は目を細める。

池の外から、頭目の声がした。

「見えるのか?」

須田が振り向いた、その瞬間。

影は、すっと消えた。

頭目は、それ以上何も言わなかった。

くるりと背を向け、道場の建物の方へ歩き出す。
足音は、ほとんどしない。

須田は、池の中に立ったまま取り残された。

見上げると、竹の上で小さなすずめが跳ねている。

須田はしばらくその場に立ち、
それからゆっくりと池から上がった。

水は、もう揺れなかった。